テキサスのホロコースト博物館で、日本酒を注いだ日
久慈浩介
正直に言うと、自分でも不思議な光景だった。ホロコースト博物館のイベント会場で、岩手の酒を注いでいる。2026年3月、テキサス州ヒューストン。「アジアとユダヤのストーリーを共有する夜」に集まった約120名のゲストに、南部美人の特別純米酒と糖類無添加の梅酒を振る舞っていた。寿司もぜんぶコーシャ対応だ。

コーシャというのは、ユダヤ教の食の戒律のこと。ヘブライ語で「ふさわしい」という意味で、何を食べてよくて何がだめかが厳密に決まっている。で、これがユダヤ教徒だけの話かというと、ぜんぜん違う。アメリカのスーパーに並ぶ食品の約30%がコーシャ認証済みだ。宗教に関係なく、「この認証がついてるなら安心」と手に取る人がそれだけいる。
南部美人がこの認証を取ったのは2013年。日本酒では獺祭に次いで2番目、梅酒とあわせての認証は日本初だった。

きっかけは、マレーシアの取引先がハラール認証を取ったと聞いたことだ。ハラールはイスラム教、コーシャはユダヤ教。宗教は違うが、「口にしていいものを厳密に定める」という構造は同じだ。どれだけ美味い酒を造っても、「飲んでいいかわからない」の一言で届かない人たちがいる。だったら、こっちから壁を越えにいけばいい。日本酒の原料は米と水と麹だけ。コーシャの条件はクリアできるだろう。楽勝だと思った。
甘かった。
ラビ(ユダヤ教の宗教指導者)が二戸の蔵にやってきて、250項目のチェックが始まった。原料だけじゃない。道具を洗う洗剤の成分、酵母の培養方法、種麹の仕入れ先まで全部だ。ある日「酵母の培養過程を見たい」と言われて、蔵から100キロ離れた盛岡の研究所まで車を飛ばした。抜き打ちの訪問もある。準備に1年以上かかった。
ただ、あの1年で気づいたことがある。コーシャの本質は「禁止」じゃない。「信頼」だ。何が入っていて、どう造られているか、全部見せられるかどうか。それは南部美人が酒造りでずっとやってきたことと同じだった。隠すものなんて、もともとない。
あれから13年。ホロコースト博物館という場所で、異なる文化が食卓を囲み、そこに南部美人がある。「ふさわしい」を意味するコーシャが、この夜ほどしっくりきたことはなかった。


翌日からはテキサスの市場を駆け回った。ダラスのワインショップ「POGO'S」で試飲販売に立つと、お客さんが次々やってくる。思った以上に売れた。テキサスの人たちは好奇心が強くて、「米の品種は?」「どうやって造るんだ?」と質問が止まらない。夜はマーク・オカダさんの自宅でプライベートテイスティング。約60名が集まって、目の前で握られる寿司と南部美人で盛り上がった。帰り際、全員に一本ずつ持ち帰ってもらった。

テキサスは、いま日本酒にとってアメリカで最も熱い新天地だと思う。ニューヨークやLAとは客層が違う。ワインの文化がしっかり根づいた土地だから、「米から造る醸造酒」という説明がすっと入る。

蔵での仕込みが終わると、スーツケースひとつで世界を回る。南部美人はいま60カ国に届いていて、JALのファーストクラスやエミレーツ航空でも注がれている。次はこのままブラジルへ向かう。地球の裏側で、日本酒が静かに根を張り始めている場所へ。
その話は、次回に。